川村ユキハルの毎日2

湘南茅ヶ崎界隈のいつもの暮らしぶり。 仕事の話や思うこと。再び。

安い涙  春

アイドルの楽曲が家で流れていて、なんだろうか。涙がサラサラと流れた。


「まただよ」という顔で、子供から「パパの涙は安いんだよ」と言われてしまった。

「安い。。。そうか、そうだな。」とティッシュはどこだと探しにソファーから腰を上げた。


笑っちゃう。思い起こせば、確かにそんなことばかり。
息子が小さいとき映画館で家族3人でアンパンマンを見たときにドキンちゃんが何かしら苦労してるいじらしい描写があり、一人コロコロと涙がこぼれてしまって奥さんに呆れられたり、子供に絵本や児童書の読み聞かせをしていた、そのうちの何回か読んでる本人が泣いてしまって進めないことも多く、小さい息子はそんな様子を不思議そうに見上げていたものだ。

 

年をとると涙腺が弱くてね。よくある話でさ、いやそうに違いないが、年をとったから涙の蛇口のパッキンが壊れてしまった。そんなわけじゃない。


今回の件はどうなんだろう。

同じ世代のファンの子達からすると代弁してくれた。その気持ちわかる!共感するとなるのだろう。

そのアイドルが歌う、その歌詞の意味を、その子の年齢ではあまり理解できていないまま歌っているんだろうなと。(いや、その年齢の中で色々あってもちろんその葛藤をうつしているのかもしれない。)

しかし、なぜ心が動くかというと、まだまだそのアイドルのイノセントな「知らない」という表現力は逆説的に、まあそこそこ生きてきた中で実感を伴った人には、自分の前に大きな鏡を置かれたような眩しさを伴ってしまうから。それも共感と呼ぶならそうかもしれない。

人生の機微を表現するいぶし銀な名人芸熟練者の手練れた表現も、気持ちを豊かに、またお腹がどっしり熱くなるような感動を抱えることがあったりしてそれは素敵な体験だけどもね。

 

イノセント。未熟さ、知らないこと。を持った若い人は、ある程度経験してきた僕らの前に鏡となって立つ。

弊社に来ていた若い大学生のインターンの子達をみていてもおなじように思う。

彼らを見るとどこかで僕は自分を見る。そしていくつかの経験というコートを纏った、退屈な、わかった風なもう一人の僕を見つける。

彼らが照らしてくれた光で、僕は僕に駆け寄りコートを引き剥がせねばと思う。

春。

また電車には朝、着慣れないスーツの新人が窮屈そうに不機嫌そうに大勢のってくるのだろう。
僕もまだまだ、おろおろと安い涙を流しながら、がんばるんだ。

僕の知らない未来が待っている。