川村ユキハルの毎日2

湘南茅ヶ崎界隈のいつもの暮らしぶり。 仕事の話や思うこと。再び。

風景の滋味深さ 

堀江敏幸氏の「いつか王子駅で」「雪沼とその周辺」の文庫を時間を置いてまた手に取り繰り返し読んでいて、滋味深い味わいと評される巻末の書評もずばりその通りで毎回意義なしと強く思います。

読み進めて、少しページを閉じてまた読んで。

「絵画に風景画があるのに小説では風景小説は成立しないのか」というような台詞が作中にもでてくるのだけど、堀江さんがよくやる手法で、彼の愛してやまない、必ずしも有名ではない(自分が無学なだけかもしれないけども)作家達が作中に確信犯的に散りばめられ、その作家達を狂言回しとして、また起点としてメッセージさせています。

「風景」そうだよね。一貫して描く「風景」の解像度を上げればその小さく明滅する光はその豊かさ、悲しみ、美しさ、脆さ、様々な心揺さぶる全ての煌めきである訳で、小さな、もしくは弱々しい些細な光だからこそ瞬きもせず感じて言葉に乗せ映そうと試みている事、これが彼の作品全体を滋味深いと言わしめているのだろう。またそれらが僕の好きな理由なのです。

 

もう一人、津上みゆきさんという画家がいて去年の夏に「みえるものの向こう」という複数の女性作家の展覧会が県立近代美術館葉山であって、彼女の海辺を書く作品に「鏡のよう」という気持ちに初めてなり、心が掻きむしられ初めて絵で泣きました。

それは大学生の頃部活で1年中ほぼ4年過ごした葉山の海辺がそこにあったのです。しかし彼女の画風は抽象画とも評されます。そんなタッチです。

好きすぎて後にギャラリーでのトークライブに参加した時に、いちばん抽象画とは言われたくない、いつも言われると怒るんです。私は風景を描いているのだと、笑顔でしたが、いたって真面目に言っていました。彼女の書き方も、Quo Vadisのスケッチブックに対象に対し毎日通っておなじ風景をスケッチして、そのスケッチ群のイメージをマッシュアップした形でキャンバスにゼロから1つの作品として仕上げていきます。いくつもの時間が作品に閉じ込められているのです。

ここにも僕が滋養を感じることができるのは、青春時代の一番深いところの自分の風景を鏡のようにそこに映し出されたと感じたのかもしれません。トークライブでも同じ作品で、様々な人がそれぞれの自分がイメージする「自分の風景」であると言うとのことで、津上さんはそれでいいのだと言ってました。その言葉は救いでもありました。感激したのは間違いではないと作者に念を押されたからです。

蛇足ですが痺れて痺れてその後、ギャラリーで彼女の描いた、ささやかな小さな絵を買って家に飾りました。

これも初めてのことでした。

 

我々手書き地図推進委員会が面白がっているのは、様々な地域のこの味わい深い滋味深さを映しとる事が好きであるという事と、この豊かな地域の「風景」を参加者のみんなと地図というフォーマットに炙り出すプロセスを喜びにしようというほかならないのだなと改めて思います。