川村ユキハルの毎日2

湘南茅ヶ崎界隈のいつもの暮らしぶり。 仕事の話や思うこと。再び。

インセクト・マイクロエージェンシー創業期の話 第2回 

<第二回 立ち上げと震災 2010―2013 年> (東日本大震災の情景が一部ございます)
小春日和と言う言葉は3月には使わないよな、春そのものかと独りごちる。朝のラッシュを終え昼の電車 は空いているため選ばず席にのんびり座り、向かいの車窓に流れるのどかな住宅街風景の一部、例えば庭 の梅などが咲いてるのを見ても、冬がやっと終わったことがわかる。電車の中にも満遍なく陽がさし暖か く、居眠りをしそうなほどの安穏さであった。

今日は2011年3月11日であった。それは 14 時から約束の打ち合わせに少し遅れながらも向かうため に東海道線に乗っているなかで起こった。大船戸塚間で止まった電車は何度も震災体験車のような、それ 以上に上下左右に揺れ、車内灯が消え、都度短い悲鳴が上がった。地震かー。停車し続ける電車の中から メールで、今日は打ち合わせ行けなそうですと送ると、先方からも、そのようですね。私も足止めですと かえってきた。地震が多い日本に住む者として、まあいつもの事ぐらいと思っていたが、どうやら様子が おかしい。余震も続く中、恐ろしくてこの場から動きたくないとでもいいたげな電車は、数センチも動か ず、結果として夜 17 時ごろ乗客全員線路を歩き戸塚駅に向かうことになった。やれやれと辿り着いた戸塚 駅では工事現場の照明が明々とジェネレータの音をあげながら輝いている。日は落ち寒くなってきた。戸 塚駅のサイネージでは NHK のニュースが音声は無く映像が繰り返し流れており、そこで初めてとんでもな いことが起きていることを悟った。湾岸のコンビナートで火災が起きており、家々が濁流に飲み込まれて いる。(それは原発と知る)


その半年前、会社設立した2010年の夏頃から新しいフィットネスクラブブランドのサービス全体をつ くるプロジェクトに参画させて頂くことになり、一人親方の私にとって、もちろん会社立ち上げて初めて の大きなプロジェクトであり、自分の持っている能力と努力の全てを出して、よいお店になるべく真剣に 課題に向き合っていた。店舗のコミュニケーションという文脈と新規性ということで、デジタルサイネー ジがフィットネスクラブでまだ使われていない時代であったため、館全体でコントロールし、会員の皆様 にかっこよく、親切に映像のコミュニケーションをマネージメントする提案は、先を見通せる本部責任者 の一早い理解により会社として正式に採用された。 あるとき、先方の本部責任者から、「川村さん、ところで部材やディスプレイなどはどうしますか?他所に 頼みますか川村さんの会社で仕入れますか、運営はどうします?」と質問があった。今思えば弊社の事業 の運命の分かれ道であったのだが、コンサル提案で終わるのは、ある意味提案後は手離れがよいものであ る。また、コンテンツ作成などは広告代理店のキャリアからお願いする先はある。しかし、イベントなど の仕切りはあっても業者さんにお願いする立場であるため、直接ディスプレイなど仕入れたり設置、調整 することは経験した事はもちろんなかった。
保守運営もしかりだ。 どうすべきか。今後のインセクト・マイクロエージェンシーの商売のスタンスを決定づけるものだが、関 わる事全てのノウハウがない限り、新たなコミュニケーションインフラを創る業務は出来ないだろうと判 断をする。決めた社是に「豊かなコミュニケーションの成立」があるが、コミュニケーションの手段(ソフ

ト、ハード)とコンテンツによりお客様と店舗が理解しあうこのインフラの「成立」を証明する事が重要 であり、デジタルサイネージ業界というものが日本で意識され始める中、現状業界がまだ混沌としてるか らこそ、ノウハウが無ければ(机の上だけでは)その新しい地平を開くこともできないだろうと思い覚悟 を決めた。
 
結果、「コミュニケーション設計の企画提案、基づくハードソフトウェア仕入設置調整、コンテンツ作成、 運用」まで、全てお任せくださいと言ったのだった。 
言ったはいいが、一人で出来るわけがない(ってここに書くのもどうかと思うが)
そこで、サイネージ のコンサル業をしていて業界団体のデジタルサイネージコンソーシアム常務理事でもある江口靖二氏に当 該案件のプラン説明と状況を話し泣きついた結果、依頼について快諾頂き、八面六臂で様々な実務の悩み を解決頂いた。本当に救世主であった。「逗子在住ならば、いい人に違いない」と言うお互い海エリアに住 んでいるという私の勝手な印象は間違ってなかったのであった。ディスプレイなどの仕入れについても江 口さんのご紹介もありシャープさんと取引できる(もちろん COD)ようになり、NTT-IT さんから STB だっ たりと必要なものが調達ができ、映像コンテンツなども順調に制作作業をしながら、怒涛の忙しさながら 順調に進んでいたのだった。オープンは2011年4月を予定していた。


 震災の翌日である。妻と子供は車でいまだ余震が続く中、実家に帰らせた。我が家は茅ヶ崎の海のそばで もし、こちらに津波がきたら全てが消えてしまうような場所であるからだ。子供は小学校の卒業証書を受 け取らず仕舞いであった。(後に送られてきた) 
私は、ザックにヘッドライトや懐中電灯やら工具を入れ、一人電車で改装中の店舗のある渋谷に向かった。 街頭やネオンが全て消えた渋谷は今でも目に焼き付いている。余震がいつあるか解らない中、常に気持ち が興奮したままである。また、この仕事が無くなれば銀行から多額に借入れて仕入れた在庫の売上も回収 できず一瞬で会社も立ち行かなくなる。という恐怖も新米社長には大きなプレッシャーとなって絡みつい た。渋谷の現場に吸い寄せられたのは色々な状況下、仕事の確かさを確かめる現場に縋り付きたかったの かもしれない。 人のいない暗い渋谷を足早に歩き着いた改装中の店舗では、店舗のマネージャーやゼネコンや各現場スタ ッフ、多くの職人が詰めていた。現場には通っていたのでお互いもう顔見知りである。それぞれの顔みる だけでも無事が確認でき、お互い笑顔で無愛想な挨拶を交わす。物流の基地は東北に多くあり、軽鉄骨な どのロジスティックのコンピュータが動かず出荷できない。電子部品がある機器は火災報知器が作動し水 浸しで使えないなど様々な状態を検討していた。我々の弱電部品であるサイネージ関連については最後の 最後の設置であるので前工程が食っていくとどんどんスケジュールが、というかほぼ無い。そもそもこの 震災後オープンできるのか?そんなムードなのか。サイネージで電気を使うことに反感はやはりあるのか。 やめるべきか。
色々な話が渦巻く中、マネージャーは本社の上層部との調整で最終的に 「会員の皆様が楽しみに待ってくれている(リブランドなので既存の会員様もいる)、(最短の)1 ヶ月後の オープンにしましょう」という固い意思決定がされた。


その決意は仕事人として、プロジェクトの同士として、小さな会社の一社長として涙が出るほど感じるも のがあり、絶対に成功させる、お客様に喜ばれている姿を見なければ、と決意をまた新たにしたのだった。 

その後輪番停電だったり、日本各地が、もちろん東北の皆様は言うまでもなく大変な情勢の中、
ティッ プ.クロスTOKYO渋谷は、1ヶ月後無事リブランド グランドオープンを迎えることとなった。(もちろん 前日深夜まで作業してましたが) 私も末席で、ドアが開きお客様を迎え入れる場に居合わせることができ、その時感じた腹の中が重く燃え るような気持ちは、新たに生まれた闘志にも近いものであったかもしれない。もちろん安堵と共に。まず は本当によかった、本当によかったとも思う。 
何にせよ、まず、「スタートラインに立つ事がこれでできた」のだ。
この日以降、安定運用の為に何度となく店舗に足を運び、お叱りも受けつつ、修正調整をした。
コンテン ツも web やガジェットに詳しい社員 1 号のハルコさん(彼女の明るさやバイタリティには助けられた)や プロジェクションマッピング制作の外部パートナーとスケジュールのもと様々なものを継続して制作して いった。不具合などあったら遠慮せず電話くださいと、携帯を枕元に置き何かあれば飛んでいった。社員 がその後担当しても休日の朝に電話がなるとビクッとする癖が暫くついてしまったのは我ながら情けない と苦笑してしまう。 情熱的で献身的なクラブ運営現場の若い店舗スタッフ皆さんの協力は感謝しきれない。店舗のスタッフが サイネージの運用作業を一部することは本業に新しく追加される業務であるが(それも必要な業務という 認識は少しだけ一般的になってきたが)、マネージャーがサイネージ自体についても「ブランド」として欠 かせないものとオープンから時間経ても変わらず、スタッフに説いてくれたのは心強かった。そのかいも あり、フィットネス業界内でも話題となり、もちろんお客様にも喜ばれた結果、以降同様の仕組みを池袋、 新宿と同ブランドとしてリニューアルする度、弊社がサイネージシステム、コンテンツを設置制作運営す ることとなり、当初考えていた通り、それらの知見を蓄えることができ、今後の事業の方向性や考え方も 整理できるようになってきた。 また、本業ではないが無名の立ち上げたばかりの小さな会社にとって、とても大きな広報手段である業界 団体のイベントでの講演や専門誌の執筆などのチャンスもいただけるようになった。そしてとても重要な 事は売上拡大にともない経営も安定することであって、都度の外部パートナーだけではなく、いよいよ社 員をさらに採用し補強できるという所まで視野に入ったことであった。