川村ユキハルの毎日2

湘南茅ヶ崎界隈のいつもの暮らしぶり。 仕事の話や思うこと。再び。

インセクト・マイクロエージェンシー創業期の話 第3回

<第3回オリジナルサービス開発と苦悩 2013−2016
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彼とは東京の丸の内、丸ビル一階にあるオープンカフェで落ち合うことになった。広告代理 店で中間管理職をしている身であり、もちろん業務中で無理言って調整して来てくれたの だが、実際会うのは何年ぶりだろうか 10 年ぶり位か?特にその間連絡も取り合わない状態 であった。久々に会う、あの頃からすっかり貫禄のついたビジネスマン然とした、ジャケッ ト姿の彼に、挨拶もそこそこに真剣さが伝わるように目を見て私が言ったセリフは 「あの時の話は覚えてるか?」であり、彼が答えたセリフは

 「覚えてます。わかりました。」だった。

 その瞬間、彼はいわゆるしっかりした企業のサラリーマン人生から無謀にも飛び降り、ジェ ットコースターのようにゆれる名もない小さな舟の副キャプテンという、一切油断ならな いが喜びも大きい仕事を選んだ事を意味し、私にとってもこれから四六時中時間を費やし 濃密な会話(仕事の、いやそれ以外も)を始終する間柄となる、最高のパートナーが確定し た瞬間であった。
赤津はその当時インターンの走りとして大学から web 制作会社に出入りし、web の企業サイ トがまだ珍しく企業サイトがいよいよ一般的になる時代にいち早くノウハウを得て広告代 理店に就職した若者であった。私もその広告代理店におり、ちょうど 20 代後半の時期、ク ライアントの宣伝予算の都合で名古屋に数人の上司先輩方と共に転勤ということになった。 そこで新人の彼と出会う。都度喫煙スペース場所や、夜な夜な遅くなり社内メンバーと食事 をする席などでは、仕事で上手くいかないジレンマや軋轢、少しだけ仕事を覚えた上の未熟 さと、そのストレスを自分達の野心や夢に変えて鷹揚に語るいかにも青臭い状況はよくあ るもので、その席で私も、「俺はいつか独立する。やりたい事がある。赤津そうしたら、お まえ一緒にやるか?」と語ったのだった。
その後、私は独立するどころか、違う広告代理 店に転職して赤津とは会わずじまい。そしてしばらく時間を置くことになった。そんな状況 の中での、冒頭のやりとりであった。



彼のサラリーを保証するのは売上が安定しないと難しい。家族も住宅ローンもある彼に対 し(自分も一緒だが)宙ぶらりんにすることはできない。せめて前職同等の給与も保証すべ きであろう。ティップネスの仕事が軌道に乗ってきたのもあって、やっと迎え入れることが できた。その後ももう一人と社員が増えていった。全員で 4 名となった。
様々な提案やス ポットの仕事もしていったが、どうしても売上が安定するのには程遠い狩猟型であった。ま た有難いのだが、いかんせんクライアントシェアが偏りすぎている。他の件も川村に相談し たい、とご指名いただけるのは嬉しいものだが、もし今後自分の感覚がズレていったらどう するのか。といつも不安が過ぎる。また、社員みんなで売れる商材がないと其々自信もつか

ないし、仕事が面白くないだろう。難しいのは、我々の選んだ道が、薄利多売でも営業マン と商品を多く抱えセールス特化にする企業タイプではなく、じっくり顧客と向き合って企 画提案して開発し、制作、運営することであり、なかなかそのノウハウは属人的で人に渡し づらいということであったり、沢山相談を頂いて沢山提案したもののやはり、大きな企業と 我々が案件で競合してしまい企業規模や伴う信頼、運営の安心感という意味合いで結局敗 退するケースが多かった。


この事は今考えると、弊社自体もそうだが、「弊社の業(なりわい)」として未成熟な段階な のだと悟る。小売業、製造業、運輸業など、業態が確定していれば努力の方向がはっきりす るものの、サイネージのハードを創るだけでもなく、もしくは売ることだけでもなく、ソフ ト開発だけでもなく、コンテンツ制作だけでもなく、コンサルだけでもない。保守運用もや るし、運営のビジネススキームも作りますというもので、ともすると全て中途半端に受け取 られてしまうかもしれないが、「店舗のコミュニケーションインフラを設計し作り上げ、運 用する」という業務である以上全て必要な部分である。また、ビジネスの大切な業としての 中心点は具体的に「デジタルでの店舗コミュニケーションの垂直業務を SaaS 中心に行おう」 として悩んでいたのだということに今となっては整理される。
当時保守業務や提案をしている中で、流通している業務用サイネージソフトの管理画面は インターフェイスが不親切でめんどくさい、また開発思想が放送局由来なので、細かくコン トロールできる部分が全然活用されていない話をよく聞いた。売る側は売ってしまえばよ いのでお構いなし。そんな状況だった。そこまで細かい設定が必要のないユーザーのために 簡便な仕組みは何だろうかという話を赤津と 2 人で始終語っていた。まてよ、我々はコミュ ニケーションのコンシュマーサービスとして SNS アプリを使ってるが、これならみんな日 常で使っている。このままこのインターフェイスで投稿ができれば、説明書やリテラシー関 わらずバイトの方でも隙間時間に投稿できるではないか。そこで開発したのが、SNS サービ スと連携してサイネージに投稿ができるという「FLOW」というサイネージシステムである。 もちろん店舗外でもその SNS でユーザーと店舗側はスマホで繋がりコミュニケーションで きる事でお互い理解し合える。画像(映像)は情報量が多く、文字をタイプする事が少ない のも現場で運用するには良い事づくめであった。
放送局のように、新聞社のように一部の 人の視点で編集されたものをシャワーのように流すのではなく、リテール現場の情報が共 有されていく。今日のコーディネートだったり、今ならハッピーアワーですとか、タイムセ ールやお客様の様子などリアルタイムで出来るではないか。という訳である。これならリテ ールの現場をエンパワーメントできる。ストックされた(固定された)視点と情報ではなく、 様々に行き交う FLOW 情報の総量こそが、今後重要になるのだと思い「FLOW」とこのサービ スを命名した。
最初は SNS 連携アプリをインスタグラムとタンブラーで展開をした。アプ リなど星の数ほどあり、1年で消えるアプリも多い中インスタグラムが Facebook 社に買わ

れ、いよいよ画像コミュニケーションアプリの主流となりこの狙いは的中した。しかしそれ に伴い Facebook 社の認可や API 変更(サービス接続事業社の許認可と仕様変更)の対応が 必要となり、それなりにサービスを導入しているお客様もいる以上、絶対に止めることはで きない。必死に対応していったのだった。
弊社同様のサービスを追いかけつくってきたラ イバルのベンチャー企業などは API 変更がある度、見合わないと判断したか、次々とサービ スを断念していった。
絶対いいサービスだ。自社のサービスについては誰でも自信をもってそう胸をはるであろ う。私達ももちろんそうであった。だがそう簡単には目論見通り数多くは売れなかった。 今では大分そのような事は無くなったが、当時は現場が更新するなんてとんでも無い。とい う意見が主流であり、もちろんわかる話ではあるが、予想を超えアレルギーが凄かった。管 理画面でコントロールできるので、いきなりアップする事はありませんよといっても「そう ですが。」と歯切れが悪い。啓蒙も重要と思い説明して回ったし、講演のチャンスがあれば 説明する時間を貰った。
もちろんその間にも開発に対応していく資金はどんどん使われていった。銀行への融資に 何度も相談に行く。各銀行の担当の方は我々を好意的に見てくれて財務状態だけで判断す るでなく、未来の予定や戦略についても面白がってくれ一定の理解をしてくれた。この頃、 預金残高を見て喉が渇き軽く目眩を起こしたのは(比喩ではなく)何度かあった。通帳を閉 じてもう一回開き眺めた。印字された頼りない数字は変わるはずもない。 キャッシュフローの意味合いや、黒字倒産の意味合いなども経済記事の言葉の羅列ではな く、刺さるように理解するようになった。もちろん社員に遅滞なく給与を出した。ボーナス も充分では無いがなんとか出していった。売上目標は達成出来ない時も来期頑張ろうと飲 み込んだ。この頃は赤津以下社員に無駄に不安にさせたくない一心で一人で全て飲み込ん でいた。そう振る舞いたかったのかもしれない。進んでいる方向は間違い無いはず、今は投 資のフェーズとして導入先を必死に見通す時期だ。そう腹を括って資金をなんとかかき集 めていた。
一切合切のストレスは仲間と山を走る(トレイルランニング)ことで、身体と心が確かにこ こにあるという事を確かめるために痛めつけた。(凄く楽しいという意味です)レースなど で昼夜問わず自然と向き合うと自分がとても小さく頼りなく感じる事や、自分自身の上限 のあるカラダとココロのコントロールを注意深く考える事は楽しかった。会社を 2 週間休 んで2015年は運良くモンブランも走ることができたのは、ストレス解消とかじゃなく て純粋に出来過ぎな位、楽しみすぎてるので、山を走るきっかけにもなった我がストレスに は感謝の言葉を言うべきかもしれないよね。