川村ユキハルの毎日2

湘南茅ヶ崎界隈のいつもの暮らしぶり。 仕事の話や思うこと。再び。

12月31日のバーベキュー

昨年年末の31日、昼食に外でバーベキューをするから火を起こしてくれと言われ

年末にあることかと息子と顔を見合い訝りながらも、まあ年末に火おこしも初めてだなと思いなおした。ちょっとでも妻の機嫌が悪くなることは年末年始には得策ではない。

昨年の晩秋に義母が風が舞ったように突然亡くなり、正月は喪中であるからなおさらだ。

 

そう言えば着火剤が無いので新聞紙をかたく丸め、風が吹いているので注意深く火をつけた。消し壺の炭は燃えやすいのでグリルに入れ、新しい炭も足していく。

1時間は経ったのかグリルの火は安定したところで先程の風は止み陽が翳って暗くなってきた。空はみるみるうちに低く、垂れ込めた何層もの灰色がかった雲が広がり気がつくと雪があたり一斉に舞っていた。とても細かく小さく軽い雪が降ってきた。近所の向かいに住む小さな子供たちは、この雪に興奮して、口々に雪だと叫ぶなり、何故かクリスマスの歌を歌うなり大騒ぎであるがそれも仕方がない。

 

かなり積もった記憶は彼らには無いのであろうから、降り始めさえ楽しいものだろう。

そういえば以前雪が相当に降って積もった記憶があるのは、5、6年前だろうか、その子供たち家族が住んでいる住宅がまだ建てている作業中の頃だ。建売住宅を請負った、家一つに一人が屋根をあげてから作業する、いわゆる一人親方達と一緒に雪をかいて道をつくった。それほど積もったのだ。

その向かいに建った3軒は、以前は1つの家と庭であったが分筆され建売住宅が建てられたものだ。また、我が家の横の家も、このクリスマスにやっと分譲の家が買われたようで、若い夫婦がクリスマスに楽しげに入居したばかりだ。

横の家も、また向かいの家のように、以前はその2軒ぶんがひとつの家と庭であった。

若い夫婦、家族がそうやって新たに住まうになった。私はどうやらこの町内では古参となってしまったようで、それはそれで街の代謝が進んでいることで歓迎すべきであろう。

 

しかしながら空間にゆとりのある、庭や池のある日本家屋の、安穏とした風情の昔からの家は、維持も大変であったとは思うが、そこに住む年老いた奥様や旦那さんは駅近いマンションや、ご実家にもどられていった。こうして引っ越した当初の家や庭や昔からの塀や生垣はなくなり、代わりにこざっぱり洒落た、シフォンケーキのような趣きの家々に囲まれてしまった。

とは言っても我が家も同じように越してきた。20数年前、まだ若い我々夫婦が7年経った中古物件ながら庭が少しだけ広くシンプルな雰囲気のよいこの家に決めたのは前のオーナーが注文住宅で拘った様々な工夫があった。が引っ越して程なく、リビングなどの当時のロココ調装飾のあるシャンデリアなどは、あっさり捨ててしまった。(玄関のものは比較的地味なので残してあるけども。)

このように前のオーナーのものは我々若い夫婦には趣味が合わず捨てたり、変えたりしたものがおおいが、心に残り続け、前オーナーとの縁を引き継いだものもある。

 

仲介の不動産会社の差し出されるままにハンコを押し続け、やっと契約がひと段落ということで前のオーナーとの家に対する注意点などの引き継ぎを伺っている時に、「川村さん、私が出来なかったことですが、このリビングの部分は実は薪ストーブを置く予定だったんです。薪ストーブは100キロもあってピアノと一緒で、下を養生して重さに耐えられるようにしないといけないので、この部分の下はそうしてあるんです。もし、出来たらやってくださいね。」

と言われたのであった。そんなこともあって、数年後薪ストーブを購入し、設置することになった。その薪ストーブの火は今年の冬も我が家を暖かく守ってくれている。

 

雪が舞うなか、口々に叫ぶ小さな子供たちの歓声を聴いて、同じように歓声をあげていた息子は春に大学を卒業するまでに時間が経過したことを改めて思う。私も同様にだ。一昨年秋からメインとなる仕事を変えたことで都内に単身赴任をし生活し、週末にここ茅ヶ崎に帰る新しい生活が続いている。


ライフゴーズオン。変化し、繰り返され、絶えず新陳代謝される。我々も街も。

清々しく晴れた新しい年明け。また会いましょう。

 

今年もよろしくお願いします

 



インセクト・マイクロエージェンシー創業期の話 最終回

第五回
次のステップに行くために 2019−2020

川村行治

 

降り注ぐ夏の日差しの強さが葉の緑と重なることで涼しげな影をより鮮やかなものにする。木漏れ日揺れる古い桜並木がある神田川の遊歩道。春の時期は椿山荘も付近にあり花見客でごった返す場所でもある。朝からの定例会議を終えた3人は、この川沿いの気持ちのよい遊歩道を地下鉄駅方面に歩きだし、整理すべき課題に対し早速あれこれと話始める。
もう昼なのだからと地下鉄の江戸川橋駅に着く前にと2人に声をかけた。
「飯でも食ってこうぜ」
途中小さな橋を渡り、早稲田大学方面に向かう。今日は家族経営で繁盛している町の中華の定食にしようか。「もう夏だなあ。こうやって毎回通っていると、この遊歩道の景色も変わり、あっという間に1年経ってしまいそうだね。いやーずっと通ってそう。」 「始まりがあれば終わりがあります。」「そうだよな。はやく仕様を決めてしまいたいもんだな。」
そんなような事を言いながらオギクボ開発の川島氏と弊社赤津と私は中華店の暖簾を潜る。


2016年にオギクボ開発と共同で開発し、プレスリリースを出した時間軸をもった4D地図サイネージ「FLOW MAP4D」だが、コンセプトが新しすぎたか、デモを開発し各社に提案をし続けたが、なかなか商用利用の契約まで漕ぎ着けることはできなかった。その後も提案する先に苦戦し、日々の他の業務に没頭している中、2018年の春頃に「プレスリリースを見たのだが」と、とある大手コンサル企業よりメールが届く。また情報交換という名のただの偵察で終わるのではと半信半疑であったが、「これはまだ名を伏せるがクライアントと我々が丁度探していた技術サービスである、もう導入先はあるのか?競合他社はいるか?これは動くのか?是非話をしたい。」という事であった。
契約までは何があるかわからず、苦い思いも何度もしているので慎重に対応させて頂きながらも、我々は内心小躍りした。いよいよだぞと。そしてこの事は新しいホテルブランドの立ち上げに伴う目玉サービスのひとつとして導入を考えていることだと理解する。この後についても、導入までの経緯は色々とあったが、具体的な事は割愛させて頂いて、これらの準備を通じて1年。ホテル開業の日が近くなるまで藤田観光さんの事務所に通い詰めることとなった。

新しいホテルブランド「ホテルタビノス浜松町」は昨年2019年夏に無事開業し、我々のサービスも「TAVINOSHIORI (タビノシオリ)」という名称のもとロビーに2機おかれ宿泊客に対しサービスインをした。続いて本年7月に浅草店も開業し同様にサービスを開始する。残念ながらコロナ禍による影響で旅行業界も苦戦を強いられているが、ホテル業界の大きな流れとして、人材の省力化を中心としたDXを伴うIT化、またそれらを活用することによる体験やサービスの拡張などを含めたサービス全体のリブランディング、リビルドを様々な大手ホテルが、構想からいよいよ実施に向け動き出していたのだ。我々のサービスもその文脈の具体としてちょうど当てはまる為、ここに来て改めて注目をされはじめていた。また、webアプリケーションであるので、様々なレイヤーでの連携が可能であり携帯連携含めサービスの拡張性があること。MaaSの文脈を考えた場合も、特許を伴う表現するCGのアニメーションは時刻表通りに飛行機や鉄道や船や人力車まで(任意で設定した散歩のコース表示も同様)3D地図上を動く訳だが、近い将来オープンデータでのAPI連携を考慮しており、豊かな表現により交通のハブになる様々な場所でのインターフェイス媒体として機能することをイメージしていた。またその地図に表現される情報のサービスプラットフォーム構想は、本年7月に「Map Experience Program」として、いち早く理解いただいたパートナー各社の参加を含め発表する事ができた。今後も様々な企業や事業社との連携を相談したい。それは様々にレイヤーされる視覚的な情報だけではなく、OTAをはじめ様々な事業者のイベントやレストラン予約への導線、携帯へのバウチャー発行などを通じて利用者に便益ある機能を実装することや、その利用実態データに応じてサービスを拡充、修正できるという、導入後FLOWMAP4Dがこのオケージョンを充分に活かした、旅ナカのサービスとして「育っていく」事が重要だからである。また、お陰様で今後も幾つかのホテルへの導入に向け作業している事もこれらを推進する大きな原動力となっている。

2018年にFFJさんと大きく発表させていただきながらも時間がかかってしまった、フィットネスクラブのマシンで走ると応じてポイントが溜まるという仕組みの、FLOW HEALTH TEC。ようやく本年2020年夏にエニタイムフィットネスの一部100店舗でのテスト導入が進み、各店舗多くの会員の皆様が利用し始めて頂いている。FFJ本部の皆様の推進力の助けもあり、いよいよ本格的に動き始めたのだ。
このサービスは、フィットネスクラブ産業は人々の水道やガス電気と同様に、言うなれば、「健康インフラ産業」であると感じる中で、どうやって楽しく運動体験を「継続」していくことができるかを我々なりのアプローチでサービス化しようとしたものだ。この考え方の中で、リテンションマーケティングとして従来の一過性のプロモーションやブランドイメージだけに頼ることだけではなく、最終的にはフィットネスクラブ業と隣接する生活の経済圏との繋がりをどう取り持つかという事を課題と捉え、それぞれの業態に行き交うコミュニケーションに必要な「コトバ=プロトコル」を「ポイント」と捉えたのだった。会員は自分のトレーニングの努力を楽しく、またその結果は可視化され、ポイントとして流通することが可能となる。使い方は様々であり、クラブによっては自社の設定するドネーションプログラムとなる場合もあれば、店舗間競争など様々なイベントを全国で、もしくは数店で、単店でも、いつでも任意に簡単に開催できる。また、フィットネスを親しむ層にアプローチしたい他企業とのタイアップやイベント協賛として会員に便益のあるキャンペーンを設定することもできるであろう。今後、会員が獲得するポイントはルールをもって流通をすることで、同商圏他企業同士で送客し合うことも可能であるし、行政との連携も視野にある(地方こそ必要かと思う)。じっくり取り組んでいきたいサービスである。

この頃からアプリサービス開発全般やポイントプログラムロジックに精通していたり、旅行業のキャリアがあり免許をもっていたり、建築や内装の業務に精通しているなど、それぞれ中堅の人材が新たな即戦力として弊社に加入した。違う文化であるキャリア人材の加入による化学変化は確実に起こるもので、暗黙知に違いがあるから意識あわせに意外に苦労もあるのだがそれも発見があり面白いものだ。そもそも弊社のデザイナーも過去アパレルのデザイナーでありアーティストとして今も作家活動もしているし、広報担当も地方エリアで広報を担当しつつ過去俳優業のキャリアがある。こんな小さな会社でも今やキャリアの坩堝となっている。もちろん子育て世代女性も複数いるため働き方は試行錯誤しながらも各員得意分野も活かしながら精力的に業務を推進できるようになった。今も各社員はハードワークをしているが、彼らがリーダーシップをとり、さらに輝き大きく活躍するのは、まだこれからであろう。社員は過去出入りもあったが、インセクト・マイクロエージェンシーはいよいよ全員で7名となった。片瀬事務所だけではなく、東京の拠点、神保町の事務所も引越し内装をリニューアルした。この街は雰囲気もよく(歴史のある本の街でカレーの街!)ここに構えて良かったと思う。


10年なんて、様々な事がありすぎて簡単には書ききれない事はわかっているものの、こうして思い返し、特に今思う代表的なことを文字にしてみると、改めてトライアンドエラーまたトライの繰り返しであったことや、総じて仕事が本当に楽しかったからこそ続けてこれたのだと改めて思う。特に新しい優秀な人材が入ってワイワイと忙しくしていると、人材を補強し少し強くなった弊社をさらにシャープに切れ味をよくする為にはどうするかと考える。 始まりがあれば終わりがある。法人は未来永劫生き続けていくことが使命だが、その細胞たる我々は代謝するのもまた、法人格として必要なことと思い、色々な事を思い巡らせ、今私ができる会社への最良の経営判断として、本年10月1日をもって、創業から10年勤めた社長業を交代することとした。立ち上げ時期から今まで、変わらぬ情熱をもって一切泣き言も言わず献身的にまた想像力をもって、一緒に楽しんで取組んできた赤津役員が代表取締役社長に就任する。私は創業会長として(しかしこんな小さい会社なのに会長かよと思われるでしょうが、やってみたかった。)違う形で会社をバックアップをすることに。我々の業務が継続し安定した業(なりわい)として、今少しだけ輪郭が見えてきたから、 今こそバトンを次に回すのである。



………………



神奈川県藤沢市片瀬。今年の夏は、海の家もなく砂浜は広いままだ。

東京から来たであろう、まばらにすれ違う親子やカップルは改札を出て輝きをまとう。
それはマスクをつけていてもわかる、変わらない夏の歓喜だ。
目を閉じてみる。
今日もいい風が吹いている。
さあ皆準備はできているだろう。


私は、考えうる最大級の祝辞として、馴染みのある詩を港から、
再び出港していく君に向け贈ろう。




船は港にいる時
最も安全であるが、
それは船が作られた目的ではない。

パウロ・コエーリョ







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<さいごに>

いよいよ赤津キャプテン新体制の中、インセクト・マイクロエージェンシーの次の10年に向け第2章が始まります。引き続き変わらぬご支援をよろしくお願いいたします。

長々と、この小さな会社の立ち上げから、簡単ではありますが10年の奮闘の経緯を書き留めることで改めて、あの時の反省と感謝を思います。またご縁がありここまで読み進めていただいて本当に感謝いたします。皆様にとって何かしらのヒントになれば。また世に数多ある小さな会社のひとつの事例として、何処かで今日も、我々のように泣き笑い情熱をもって日々孤軍奮闘している人達がいるのだろう。ということにエールを頂けたらと思います。

2020年 夏
川村行治

 

インセクト・マイクロエージェンシー創業期の話  第4回

<第四回 企業として一人前になるために 2017−2019>
我々は、インスタグラム連携という単機能としてのサイネージシステムである「FLOW」を提 案する中で、顧客や提案先からのリクエストや、反省点を考慮し企業にとって様々な形で導 入しやすいように、次々とサービスを発表していくことになった。また、その中で新しいパ ートナー企業との出会いも多くなり、刺激があった事も大きい。弊社は営業力は人がいない 為に弱いが、新しい商品サービスの発表をしていくことで注目をして貰おうとしたのだっ た。そのサービスとは、
1)インスタグラムに加え任意の動画や他社広告の放映(による売上のしくみもビジネスス キームとして構築し契約)が放映ロールに組み込まれた 「FLOWCAST」

2)上記仕様に加え、導入先依頼によるカスタマイズが可能な「FLOWCAST ENTERPRISE」 後に(1)(2)は統合
3)インスタグラム画像に最適な正方形ディスプレイの輸入販売企業と提携し、バンドルし た設置も手軽なインスタグラムサイネージディスプレイ 「FLOW SQUER SIGNAGE」

4)4D 地図表現のシステムを有するオギクボ開発との共同開発した時間軸を持ったマップ型 サイネージ「FLOW MAP 4D」
である。
このようにサービスを増やしていき提案力の向上を底上げしようと試みた。
また当時ハー ドウェアスタートアップも IOT バブルによりもてはやされており「shigusa」というコミュ ニケーションガジェットを我々もスタッフィングして、プロトタイピング製作までするも のの、開発が進み、調べるほど幾つものハードルがある事を知り、またそれは我々の過去の キャリアやノウハウでなんとか出来るレベルではない為(もちろんファブレスとして想定 したものの、それら進める過程で果たして最適かどうかの意思決定が自分ではできないと いう判断)、よって、しっかりビジネススキームに乗せるまでもなく、残念ながら撤退をき めた。あまりに稚拙といえばそれまでだが、考えてすぐ挑戦してみる環境というのは小さい 企業の醍醐味でもあるので、楽しくよい機会となった。だがこれも多額の勉強代を支払うこ ととなってしまった。 
ビジネスにおいて、大手製造業に対するある種の畏怖や、その奥深さを改めて感じるのと 共に、調達し製造することはもちろん、流通も販売もサプライチェーンを構築する大変さ、 大切さを改めて実感することになる。撤退自体はもちろん悔しかったが、後々のビジネス設 計において、これも身をもって勉強したことが、自社サービス商品を安全に供給をしていく

ためのヒントとなる事で今後役立っていく。


様々な事に試行錯誤しながらも、必死に(といっても悲壮感はなく毎回夢中で、懲りずに 楽しんでいたからこそ続けられる訳だが)地道に様々な企業様に企画提案活動をしている 中で、ご紹介やご縁もありネイルサロン企業へ FLOWCAST ENTERPRISE が 70 台近い導入を決 定頂いた。
毎回一企業に対し 10 台未満だったのが初めて一挙に 70 台である。ハードウェアは東芝さ んに依頼し、そのディスプレイにバンドルする形でシステム導入と運用をされ、初めて関東 近郊から様々な地域でのサービス展開となった。また、初めてリース企業とも提携して関係 を構築していく。外部の広告運用もシステム連携をしており業務としてメディアレップと しても広告代理店等に対し営業し始めていた。

 多店舗での運用保守ノウハウをここで身につけることになるが2年続けて頂き、3年目に 残念ながら外部の広告があまり決まらない事により撤退を告げられる。交通系サイネージ とは違い、残念であるが店舗サイネージ広告のネットワークは大手広告代理店を中心に戦 略的にまた合理的に取引される為にはまだ黎明期であり、原始的な雑媒体的な扱いと取引 形態のためどうしても各広告営業マンや出稿したいクライアントの目には届かず、またそ うだとしてもボリュームとして纏まらないため購入決定に至らず苦戦していたのは確かだ った。あまり落胆はなく、これも時間の問題と思い、今までの知見や関係各社との連携はそ のままに、次に繋げようとしていた。我々の仕組みのプラットフォームによるサイネージの 広告ビジネスは、今後も重要な位置付けであり、もちろんすぐにでも多く売り上げたいもの だが、それだけで商売をしている訳ではないので、冷静に状況を見ていたこともあった。
その後、全国で破竹の如く出店展開を推し進める 24 時間ジムのエニタイムフィットネスを 運営する Fast Fitness Japan(以下 FFJ)さんとの出会いにより、今までのノウハウと反省 と知見、もちろん自社システムの FLOWCAST ENTERPRISE による店舗コミュニケーションス キームの提案を重ね採用されることとなる。これも我々としてはいつも同じ気持ちで提案 しているものの、FFJ さんは企業として、この仕組みについての導入の判断は少し先を見据 えた形での英断だった事と思う。 色々と導入されるまでの思い出深い経緯は沢山あるが、長くなるので過程は省略とさせて いただいて、そのことにより一気に数 10 から当初 400 店舗。今では全国 700 店舗にシステ ム、サービスが導入され展開し運用される事となった。また同時に外部からの広告放映スキ ームも展開する。
24 時間ジムである以上システムはもちろん365日 24 時間稼働して欲 しい。コストは抑えたい。というリクエストに頭を抱えながら、このチャンスを断る理由は ないと社員全員はもちろんパートナーと様々な手段やシステムのチューニングを重ね実現 が可能という所まで漕ぎ着ける。
24 時間ジムはスタッフが少ないため、また 24 時間四六 時中スタッフがいる訳でもないため、店舗と会員にとってのお互いの「窓」となるサイネー

ジは大切である。
ヘルシア TV」と愛称を名づけられた、このサイネージによって本部のブランド訴求や全 体に届けたいメッセージは勿論のこと、利用に関する個々の店舗のメッセージや会員様と の繋がりなどを各店舗スタッフの皆様が生き生きとした表情により、サイネージにアップ ロードされ、会員の皆様とのコミュニケーションの一助となっていることが次々と確認す ることができた。スタッフの皆さんや会員の皆様の笑顔のコンテンツを見ていると、我々が めざしていたサービスはこういうことなのだと感激である。本部の大きなコミュニケーシ ョンのストロークと各店舗での自発的な小さな無数のストロークが同時に展開される。700 店舗それぞれが自店のメディアを持つということはこういう事なのだ、この総量こそがエ ニタイムのブランドパワー総量としてゆっくり確実に積み上がっていく。
最初の頃は規模 もあり(毎度だが)不具合もでてしまい、ご迷惑をかける事も多々あったが、赤津以下社員 スタッフの頑張りにより安定し稼働している。
これらも構築する上で必要な、新たな社内 制度の取組みや伴う運用ルールなど、全てにおいて FFJ の本部の関係者皆さんに親身に情 熱を傾けて推進頂いたことも重要な事であった。これらがあって初めて、先方にとっても 我々にとっても新しい、そしてユニークな店舗コミュニケーションインフラの仕組みが構 築できたのは言うまでもない。
これは勿論今でもチャレンジ中で日々進化を繰り返している。まだまだな部分もあるし、店 舗の皆様にはもっともっと活用いただく為に我々は努力せねばならない。 安定したサービスを提供する為にこれを機に、保守供給サイドの調達パートナーとの発注 スキームも整備され、新店舗による設置依頼、不具合店舗の対応もスケジュールに則ってサ プライ、サービスできるようになってきた。
機材をもって自分が駆けつけ設置するという 立ち上げ当初からすると、なんといういっぱしの会社のようではないか! 笑われてしまうのは承知だが、他所様から見てもやっとここまできて普通の会社らしい体 制が作れたのはありがたかった。クライアントだけでなく、供給元である取引先企業との関 係というのも非常に大切である事もこれらを通じて身をもって知ることになったからであ る。当たり前だが、小さな企業は質はもちろん、取引量がないと相手に信用されないし、全 てにおいて洗練されていかないものだ。起業してもうすぐ 10 年という所で、このようなと ても重要な事をこの仕事を通じて様々なステイクスホルダーに教えて頂くこととなった。 立ち上げてからずっと、大手メーカーや販社や商社など、取引条件が厳しかったり、口座を 開けないと審査されたり、また暗にのらりくらりとオタクとは付き合えないよ、という対応 をされる事が当たり前になっていたのもあり、その度に「今に見てろ」と思いながらも一方 では仕方ないかとも感じていた。それが当たり前の前提でなんとかやってきたが、サラリー マン時代はその信頼の輪の中で取引が出来てきたんだなと今、染み染み思う。 それを考えると歴史ある企業というのは伊達じゃなく、大変な事をなし続けていることな のだということも実感を持って気付く事であり、これも起業したからこその発見であった。

一人前の企業になるためには、まだまだなのは百も承知だが、様々な波に揉まれ続けながら 何が重要かを少し理解できたのは、一人前の企業へのチケットをやっと 1 枚貰ったのでは ないか。 そうとも思う。








インセクト・マイクロエージェンシー創業期の話 第3回

<第3回オリジナルサービス開発と苦悩 2013−2016
>

彼とは東京の丸の内、丸ビル一階にあるオープンカフェで落ち合うことになった。広告代理 店で中間管理職をしている身であり、もちろん業務中で無理言って調整して来てくれたの だが、実際会うのは何年ぶりだろうか 10 年ぶり位か?特にその間連絡も取り合わない状態 であった。久々に会う、あの頃からすっかり貫禄のついたビジネスマン然とした、ジャケッ ト姿の彼に、挨拶もそこそこに真剣さが伝わるように目を見て私が言ったセリフは 「あの時の話は覚えてるか?」であり、彼が答えたセリフは

 「覚えてます。わかりました。」だった。

 その瞬間、彼はいわゆるしっかりした企業のサラリーマン人生から無謀にも飛び降り、ジェ ットコースターのようにゆれる名もない小さな舟の副キャプテンという、一切油断ならな いが喜びも大きい仕事を選んだ事を意味し、私にとってもこれから四六時中時間を費やし 濃密な会話(仕事の、いやそれ以外も)を始終する間柄となる、最高のパートナーが確定し た瞬間であった。
赤津はその当時インターンの走りとして大学から web 制作会社に出入りし、web の企業サイ トがまだ珍しく企業サイトがいよいよ一般的になる時代にいち早くノウハウを得て広告代 理店に就職した若者であった。私もその広告代理店におり、ちょうど 20 代後半の時期、ク ライアントの宣伝予算の都合で名古屋に数人の上司先輩方と共に転勤ということになった。 そこで新人の彼と出会う。都度喫煙スペース場所や、夜な夜な遅くなり社内メンバーと食事 をする席などでは、仕事で上手くいかないジレンマや軋轢、少しだけ仕事を覚えた上の未熟 さと、そのストレスを自分達の野心や夢に変えて鷹揚に語るいかにも青臭い状況はよくあ るもので、その席で私も、「俺はいつか独立する。やりたい事がある。赤津そうしたら、お まえ一緒にやるか?」と語ったのだった。
その後、私は独立するどころか、違う広告代理 店に転職して赤津とは会わずじまい。そしてしばらく時間を置くことになった。そんな状況 の中での、冒頭のやりとりであった。



彼のサラリーを保証するのは売上が安定しないと難しい。家族も住宅ローンもある彼に対 し(自分も一緒だが)宙ぶらりんにすることはできない。せめて前職同等の給与も保証すべ きであろう。ティップネスの仕事が軌道に乗ってきたのもあって、やっと迎え入れることが できた。その後ももう一人と社員が増えていった。全員で 4 名となった。
様々な提案やス ポットの仕事もしていったが、どうしても売上が安定するのには程遠い狩猟型であった。ま た有難いのだが、いかんせんクライアントシェアが偏りすぎている。他の件も川村に相談し たい、とご指名いただけるのは嬉しいものだが、もし今後自分の感覚がズレていったらどう するのか。といつも不安が過ぎる。また、社員みんなで売れる商材がないと其々自信もつか

ないし、仕事が面白くないだろう。難しいのは、我々の選んだ道が、薄利多売でも営業マン と商品を多く抱えセールス特化にする企業タイプではなく、じっくり顧客と向き合って企 画提案して開発し、制作、運営することであり、なかなかそのノウハウは属人的で人に渡し づらいということであったり、沢山相談を頂いて沢山提案したもののやはり、大きな企業と 我々が案件で競合してしまい企業規模や伴う信頼、運営の安心感という意味合いで結局敗 退するケースが多かった。


この事は今考えると、弊社自体もそうだが、「弊社の業(なりわい)」として未成熟な段階な のだと悟る。小売業、製造業、運輸業など、業態が確定していれば努力の方向がはっきりす るものの、サイネージのハードを創るだけでもなく、もしくは売ることだけでもなく、ソフ ト開発だけでもなく、コンテンツ制作だけでもなく、コンサルだけでもない。保守運用もや るし、運営のビジネススキームも作りますというもので、ともすると全て中途半端に受け取 られてしまうかもしれないが、「店舗のコミュニケーションインフラを設計し作り上げ、運 用する」という業務である以上全て必要な部分である。また、ビジネスの大切な業としての 中心点は具体的に「デジタルでの店舗コミュニケーションの垂直業務を SaaS 中心に行おう」 として悩んでいたのだということに今となっては整理される。
当時保守業務や提案をしている中で、流通している業務用サイネージソフトの管理画面は インターフェイスが不親切でめんどくさい、また開発思想が放送局由来なので、細かくコン トロールできる部分が全然活用されていない話をよく聞いた。売る側は売ってしまえばよ いのでお構いなし。そんな状況だった。そこまで細かい設定が必要のないユーザーのために 簡便な仕組みは何だろうかという話を赤津と 2 人で始終語っていた。まてよ、我々はコミュ ニケーションのコンシュマーサービスとして SNS アプリを使ってるが、これならみんな日 常で使っている。このままこのインターフェイスで投稿ができれば、説明書やリテラシー関 わらずバイトの方でも隙間時間に投稿できるではないか。そこで開発したのが、SNS サービ スと連携してサイネージに投稿ができるという「FLOW」というサイネージシステムである。 もちろん店舗外でもその SNS でユーザーと店舗側はスマホで繋がりコミュニケーションで きる事でお互い理解し合える。画像(映像)は情報量が多く、文字をタイプする事が少ない のも現場で運用するには良い事づくめであった。
放送局のように、新聞社のように一部の 人の視点で編集されたものをシャワーのように流すのではなく、リテール現場の情報が共 有されていく。今日のコーディネートだったり、今ならハッピーアワーですとか、タイムセ ールやお客様の様子などリアルタイムで出来るではないか。という訳である。これならリテ ールの現場をエンパワーメントできる。ストックされた(固定された)視点と情報ではなく、 様々に行き交う FLOW 情報の総量こそが、今後重要になるのだと思い「FLOW」とこのサービ スを命名した。
最初は SNS 連携アプリをインスタグラムとタンブラーで展開をした。アプ リなど星の数ほどあり、1年で消えるアプリも多い中インスタグラムが Facebook 社に買わ

れ、いよいよ画像コミュニケーションアプリの主流となりこの狙いは的中した。しかしそれ に伴い Facebook 社の認可や API 変更(サービス接続事業社の許認可と仕様変更)の対応が 必要となり、それなりにサービスを導入しているお客様もいる以上、絶対に止めることはで きない。必死に対応していったのだった。
弊社同様のサービスを追いかけつくってきたラ イバルのベンチャー企業などは API 変更がある度、見合わないと判断したか、次々とサービ スを断念していった。
絶対いいサービスだ。自社のサービスについては誰でも自信をもってそう胸をはるであろ う。私達ももちろんそうであった。だがそう簡単には目論見通り数多くは売れなかった。 今では大分そのような事は無くなったが、当時は現場が更新するなんてとんでも無い。とい う意見が主流であり、もちろんわかる話ではあるが、予想を超えアレルギーが凄かった。管 理画面でコントロールできるので、いきなりアップする事はありませんよといっても「そう ですが。」と歯切れが悪い。啓蒙も重要と思い説明して回ったし、講演のチャンスがあれば 説明する時間を貰った。
もちろんその間にも開発に対応していく資金はどんどん使われていった。銀行への融資に 何度も相談に行く。各銀行の担当の方は我々を好意的に見てくれて財務状態だけで判断す るでなく、未来の予定や戦略についても面白がってくれ一定の理解をしてくれた。この頃、 預金残高を見て喉が渇き軽く目眩を起こしたのは(比喩ではなく)何度かあった。通帳を閉 じてもう一回開き眺めた。印字された頼りない数字は変わるはずもない。 キャッシュフローの意味合いや、黒字倒産の意味合いなども経済記事の言葉の羅列ではな く、刺さるように理解するようになった。もちろん社員に遅滞なく給与を出した。ボーナス も充分では無いがなんとか出していった。売上目標は達成出来ない時も来期頑張ろうと飲 み込んだ。この頃は赤津以下社員に無駄に不安にさせたくない一心で一人で全て飲み込ん でいた。そう振る舞いたかったのかもしれない。進んでいる方向は間違い無いはず、今は投 資のフェーズとして導入先を必死に見通す時期だ。そう腹を括って資金をなんとかかき集 めていた。
一切合切のストレスは仲間と山を走る(トレイルランニング)ことで、身体と心が確かにこ こにあるという事を確かめるために痛めつけた。(凄く楽しいという意味です)レースなど で昼夜問わず自然と向き合うと自分がとても小さく頼りなく感じる事や、自分自身の上限 のあるカラダとココロのコントロールを注意深く考える事は楽しかった。会社を 2 週間休 んで2015年は運良くモンブランも走ることができたのは、ストレス解消とかじゃなく て純粋に出来過ぎな位、楽しみすぎてるので、山を走るきっかけにもなった我がストレスに は感謝の言葉を言うべきかもしれないよね。

インセクト・マイクロエージェンシー創業期の話 第2回 

<第二回 立ち上げと震災 2010―2013 年> (東日本大震災の情景が一部ございます)
小春日和と言う言葉は3月には使わないよな、春そのものかと独りごちる。朝のラッシュを終え昼の電車 は空いているため選ばず席にのんびり座り、向かいの車窓に流れるのどかな住宅街風景の一部、例えば庭 の梅などが咲いてるのを見ても、冬がやっと終わったことがわかる。電車の中にも満遍なく陽がさし暖か く、居眠りをしそうなほどの安穏さであった。

今日は2011年3月11日であった。それは 14 時から約束の打ち合わせに少し遅れながらも向かうため に東海道線に乗っているなかで起こった。大船戸塚間で止まった電車は何度も震災体験車のような、それ 以上に上下左右に揺れ、車内灯が消え、都度短い悲鳴が上がった。地震かー。停車し続ける電車の中から メールで、今日は打ち合わせ行けなそうですと送ると、先方からも、そのようですね。私も足止めですと かえってきた。地震が多い日本に住む者として、まあいつもの事ぐらいと思っていたが、どうやら様子が おかしい。余震も続く中、恐ろしくてこの場から動きたくないとでもいいたげな電車は、数センチも動か ず、結果として夜 17 時ごろ乗客全員線路を歩き戸塚駅に向かうことになった。やれやれと辿り着いた戸塚 駅では工事現場の照明が明々とジェネレータの音をあげながら輝いている。日は落ち寒くなってきた。戸 塚駅のサイネージでは NHK のニュースが音声は無く映像が繰り返し流れており、そこで初めてとんでもな いことが起きていることを悟った。湾岸のコンビナートで火災が起きており、家々が濁流に飲み込まれて いる。(それは原発と知る)


その半年前、会社設立した2010年の夏頃から新しいフィットネスクラブブランドのサービス全体をつ くるプロジェクトに参画させて頂くことになり、一人親方の私にとって、もちろん会社立ち上げて初めて の大きなプロジェクトであり、自分の持っている能力と努力の全てを出して、よいお店になるべく真剣に 課題に向き合っていた。店舗のコミュニケーションという文脈と新規性ということで、デジタルサイネー ジがフィットネスクラブでまだ使われていない時代であったため、館全体でコントロールし、会員の皆様 にかっこよく、親切に映像のコミュニケーションをマネージメントする提案は、先を見通せる本部責任者 の一早い理解により会社として正式に採用された。 あるとき、先方の本部責任者から、「川村さん、ところで部材やディスプレイなどはどうしますか?他所に 頼みますか川村さんの会社で仕入れますか、運営はどうします?」と質問があった。今思えば弊社の事業 の運命の分かれ道であったのだが、コンサル提案で終わるのは、ある意味提案後は手離れがよいものであ る。また、コンテンツ作成などは広告代理店のキャリアからお願いする先はある。しかし、イベントなど の仕切りはあっても業者さんにお願いする立場であるため、直接ディスプレイなど仕入れたり設置、調整 することは経験した事はもちろんなかった。
保守運営もしかりだ。 どうすべきか。今後のインセクト・マイクロエージェンシーの商売のスタンスを決定づけるものだが、関 わる事全てのノウハウがない限り、新たなコミュニケーションインフラを創る業務は出来ないだろうと判 断をする。決めた社是に「豊かなコミュニケーションの成立」があるが、コミュニケーションの手段(ソフ

ト、ハード)とコンテンツによりお客様と店舗が理解しあうこのインフラの「成立」を証明する事が重要 であり、デジタルサイネージ業界というものが日本で意識され始める中、現状業界がまだ混沌としてるか らこそ、ノウハウが無ければ(机の上だけでは)その新しい地平を開くこともできないだろうと思い覚悟 を決めた。
 
結果、「コミュニケーション設計の企画提案、基づくハードソフトウェア仕入設置調整、コンテンツ作成、 運用」まで、全てお任せくださいと言ったのだった。 
言ったはいいが、一人で出来るわけがない(ってここに書くのもどうかと思うが)
そこで、サイネージ のコンサル業をしていて業界団体のデジタルサイネージコンソーシアム常務理事でもある江口靖二氏に当 該案件のプラン説明と状況を話し泣きついた結果、依頼について快諾頂き、八面六臂で様々な実務の悩み を解決頂いた。本当に救世主であった。「逗子在住ならば、いい人に違いない」と言うお互い海エリアに住 んでいるという私の勝手な印象は間違ってなかったのであった。ディスプレイなどの仕入れについても江 口さんのご紹介もありシャープさんと取引できる(もちろん COD)ようになり、NTT-IT さんから STB だっ たりと必要なものが調達ができ、映像コンテンツなども順調に制作作業をしながら、怒涛の忙しさながら 順調に進んでいたのだった。オープンは2011年4月を予定していた。


 震災の翌日である。妻と子供は車でいまだ余震が続く中、実家に帰らせた。我が家は茅ヶ崎の海のそばで もし、こちらに津波がきたら全てが消えてしまうような場所であるからだ。子供は小学校の卒業証書を受 け取らず仕舞いであった。(後に送られてきた) 
私は、ザックにヘッドライトや懐中電灯やら工具を入れ、一人電車で改装中の店舗のある渋谷に向かった。 街頭やネオンが全て消えた渋谷は今でも目に焼き付いている。余震がいつあるか解らない中、常に気持ち が興奮したままである。また、この仕事が無くなれば銀行から多額に借入れて仕入れた在庫の売上も回収 できず一瞬で会社も立ち行かなくなる。という恐怖も新米社長には大きなプレッシャーとなって絡みつい た。渋谷の現場に吸い寄せられたのは色々な状況下、仕事の確かさを確かめる現場に縋り付きたかったの かもしれない。 人のいない暗い渋谷を足早に歩き着いた改装中の店舗では、店舗のマネージャーやゼネコンや各現場スタ ッフ、多くの職人が詰めていた。現場には通っていたのでお互いもう顔見知りである。それぞれの顔みる だけでも無事が確認でき、お互い笑顔で無愛想な挨拶を交わす。物流の基地は東北に多くあり、軽鉄骨な どのロジスティックのコンピュータが動かず出荷できない。電子部品がある機器は火災報知器が作動し水 浸しで使えないなど様々な状態を検討していた。我々の弱電部品であるサイネージ関連については最後の 最後の設置であるので前工程が食っていくとどんどんスケジュールが、というかほぼ無い。そもそもこの 震災後オープンできるのか?そんなムードなのか。サイネージで電気を使うことに反感はやはりあるのか。 やめるべきか。
色々な話が渦巻く中、マネージャーは本社の上層部との調整で最終的に 「会員の皆様が楽しみに待ってくれている(リブランドなので既存の会員様もいる)、(最短の)1 ヶ月後の オープンにしましょう」という固い意思決定がされた。


その決意は仕事人として、プロジェクトの同士として、小さな会社の一社長として涙が出るほど感じるも のがあり、絶対に成功させる、お客様に喜ばれている姿を見なければ、と決意をまた新たにしたのだった。 

その後輪番停電だったり、日本各地が、もちろん東北の皆様は言うまでもなく大変な情勢の中、
ティッ プ.クロスTOKYO渋谷は、1ヶ月後無事リブランド グランドオープンを迎えることとなった。(もちろん 前日深夜まで作業してましたが) 私も末席で、ドアが開きお客様を迎え入れる場に居合わせることができ、その時感じた腹の中が重く燃え るような気持ちは、新たに生まれた闘志にも近いものであったかもしれない。もちろん安堵と共に。まず は本当によかった、本当によかったとも思う。 
何にせよ、まず、「スタートラインに立つ事がこれでできた」のだ。
この日以降、安定運用の為に何度となく店舗に足を運び、お叱りも受けつつ、修正調整をした。
コンテン ツも web やガジェットに詳しい社員 1 号のハルコさん(彼女の明るさやバイタリティには助けられた)や プロジェクションマッピング制作の外部パートナーとスケジュールのもと様々なものを継続して制作して いった。不具合などあったら遠慮せず電話くださいと、携帯を枕元に置き何かあれば飛んでいった。社員 がその後担当しても休日の朝に電話がなるとビクッとする癖が暫くついてしまったのは我ながら情けない と苦笑してしまう。 情熱的で献身的なクラブ運営現場の若い店舗スタッフ皆さんの協力は感謝しきれない。店舗のスタッフが サイネージの運用作業を一部することは本業に新しく追加される業務であるが(それも必要な業務という 認識は少しだけ一般的になってきたが)、マネージャーがサイネージ自体についても「ブランド」として欠 かせないものとオープンから時間経ても変わらず、スタッフに説いてくれたのは心強かった。そのかいも あり、フィットネス業界内でも話題となり、もちろんお客様にも喜ばれた結果、以降同様の仕組みを池袋、 新宿と同ブランドとしてリニューアルする度、弊社がサイネージシステム、コンテンツを設置制作運営す ることとなり、当初考えていた通り、それらの知見を蓄えることができ、今後の事業の方向性や考え方も 整理できるようになってきた。 また、本業ではないが無名の立ち上げたばかりの小さな会社にとって、とても大きな広報手段である業界 団体のイベントでの講演や専門誌の執筆などのチャンスもいただけるようになった。そしてとても重要な 事は売上拡大にともない経営も安定することであって、都度の外部パートナーだけではなく、いよいよ社 員をさらに採用し補強できるという所まで視野に入ったことであった。

インセクト・マイクロエージェンシー創業期の話 1話(10周年記念サイト掲載の為に書いたもの)

<第一回 序章>
神奈川県藤沢市片瀬のオフィスから湘南モノレールの方向に眺めると龍口寺の森が見えます。モノレール の背後に今の時期輝く緑の山がこんもりとあり、その上をトンビが、上昇気流に乗り空に吸い込まれ、は らはらと今舞い上がりました。
弊社インセクト・マイクロエージェンシーは、10年を迎えました。 10年前の2010年7月7日。中小企業に優しい(のではと思われる)行政書士さんを恐る恐るネット で探して、その横浜の先生にお願いしてこの日としました。段取りに一人右往左往し、登記完了しても誰 も特に報告する人もおらず、親父に「出来たよ。」とだけ電話で強烈な日差しの中、道端で話したのを覚 えています。 
その年の秋にこの片瀬の事務所を借りました。何も家具がなくキャンプ道具の椅子とテーブルをもちこん で「いよいよか」と一人悦に入ったのは月並みですが、やはり昨日のようです。 
今まで全てにおいて、順風満帆かというと、もちろんそんな事はありません。
もちろん色々な事はあり ました。やりきれないことや、ふがいなく泣けてくる夜は何度となく訪れるものです。そんなものです。
沢山の方と出会って、沢山のお客様や取引先に助けられ、沢山の友人に励まされました。 10年前、特に誰となく、見送られることなく出港した舟は、揺られ揺られて、幾つかの港に寄って乗組 員を増やし少しだけ大きく逞しくなりました。 社名のインセクト・マイクロエージェンシーという、どうにも長い名前も 「昆虫」という地球上で一番多様な種に会社のタフさ、しぶとさを重ねています。 特徴のある自慢の優秀な社員が今の会社を支えているのは嬉しく頼もしくもあります。弊社は少数精鋭で あるため、様々な事を思慮深く考え、多方面で実務をこなさなければいけません。私はと言うと、ここ最 近意識したのは少しだけ大きな器(役割)を各人に用意することだけでした。その器を満たすため、共に 切磋琢磨していくことが喜びであり、結果としてお客様にも最善の提案や実務ができることや、これらを 通じて結果として社員各人の人生を豊かにする事の一つとなればと常々思っています。
このエッセイは、「10年ひと昔」として、どんな風に会社が成り立っていったかを記録しようと5回に わたって奮闘した様子のエッセンスを文章にしようと思っています。 年がたつほど美化しがちなものですが、その前に、カッコ悪くてもドタバタやったことこそが事実であり、 今の若い社員や皆様に「こんなものなら俺も大丈夫だ」「仕事は面白いな」「試行錯誤してみんな楽しそ う」なんて思っていただければと嬉しいなと思っています。仕事ってたのしいよね。


ということで、これから5回、過去の記録をつけつつも、11年目に向かって今また出港の時です。 いまではこの船にテープを投げてくれる人や、声をかけ手をふる人も見えます。 ありがとう。いってきます。
 仲間といい旅をしよう。また皆さんとのいい出会いを想い描き、帆をはり舵をきります。

風景の滋味深さ 

堀江敏幸氏の「いつか王子駅で」「雪沼とその周辺」の文庫を時間を置いてまた手に取り繰り返し読んでいて、滋味深い味わいと評される巻末の書評もずばりその通りで毎回意義なしと強く思います。

読み進めて、少しページを閉じてまた読んで。

「絵画に風景画があるのに小説では風景小説は成立しないのか」というような台詞が作中にもでてくるのだけど、堀江さんがよくやる手法で、彼の愛してやまない、必ずしも有名ではない(自分が無学なだけかもしれないけども)作家達が作中に確信犯的に散りばめられ、その作家達を狂言回しとして、また起点としてメッセージさせています。

「風景」そうだよね。一貫して描く「風景」の解像度を上げればその小さく明滅する光はその豊かさ、悲しみ、美しさ、脆さ、様々な心揺さぶる全ての煌めきである訳で、小さな、もしくは弱々しい些細な光だからこそ瞬きもせず感じて言葉に乗せ映そうと試みている事、これが彼の作品全体を滋味深いと言わしめているのだろう。またそれらが僕の好きな理由なのです。

 

もう一人、津上みゆきさんという画家がいて去年の夏に「みえるものの向こう」という複数の女性作家の展覧会が県立近代美術館葉山であって、彼女の海辺を書く作品に「鏡のよう」という気持ちに初めてなり、心が掻きむしられ初めて絵で泣きました。

それは大学生の頃部活で1年中ほぼ4年過ごした葉山の海辺がそこにあったのです。しかし彼女の画風は抽象画とも評されます。そんなタッチです。

好きすぎて後にギャラリーでのトークライブに参加した時に、いちばん抽象画とは言われたくない、いつも言われると怒るんです。私は風景を描いているのだと、笑顔でしたが、いたって真面目に言っていました。彼女の書き方も、Quo Vadisのスケッチブックに対象に対し毎日通っておなじ風景をスケッチして、そのスケッチ群のイメージをマッシュアップした形でキャンバスにゼロから1つの作品として仕上げていきます。いくつもの時間が作品に閉じ込められているのです。

ここにも僕が滋養を感じることができるのは、青春時代の一番深いところの自分の風景を鏡のようにそこに映し出されたと感じたのかもしれません。トークライブでも同じ作品で、様々な人がそれぞれの自分がイメージする「自分の風景」であると言うとのことで、津上さんはそれでいいのだと言ってました。その言葉は救いでもありました。感激したのは間違いではないと作者に念を押されたからです。

蛇足ですが痺れて痺れてその後、ギャラリーで彼女の描いた、ささやかな小さな絵を買って家に飾りました。

これも初めてのことでした。

 

我々手書き地図推進委員会が面白がっているのは、様々な地域のこの味わい深い滋味深さを映しとる事が好きであるという事と、この豊かな地域の「風景」を参加者のみんなと地図というフォーマットに炙り出すプロセスを喜びにしようというほかならないのだなと改めて思います。